2011年10月24日星期一

広島の発言2011:爆心1キロで被爆した戦災孤児、中下智明さん /広島

靴 通販 大きい ◇辛抱の人生、死の恐怖は消えた--中下智明さん(81) 66年前の8月、爆心から1キロ西で被爆した。当時15歳。前月に実家の呉市が空襲に遭い、両親と一番下の弟を亡くしていた。自分と18歳の姉、12歳と9歳の弟の4人が残された。失意のどん底にあったが、1人前の鉄工職人になり、長男として家族を養おうと決意した矢先だった。 「親がおらんようになっただけでもきつかったのに、なんで原爆にも…。空襲と原爆で人生がすっかり変わってしまった」 保険会社支店長だった父に、手に職を付けるよう勧められ、44年に14歳で見習い工に。旧祇園町(現安佐南区)の工場で軍に卸すフライス盤の製造に打ち込んだ。原爆投下の朝は広島市内で建物疎開に駆り出されていた。せん光とともに民家の下敷きに。がれきの隙間(すきま)に体が収まり、九死に一生を得た。 工場は救護所のようだった。8月末まで被爆した社員を世話したが、体調不良で現在の北広島町に疎開。40度超の高熱、歯茎からの出血などで1カ月寝込んだ。 「工場に逃げてきた社員が毎日死んでいった。自分も髪の毛が抜けてきて、『死ぬんじゃ』と子供ながらに思った。被爆の後遺症で死ぬのが怖かった。その恐怖は寿命も近づいた75歳を超えて、ようやく消えました」 仕事を辞めて呉に戻り、姉弟と4人で暮らし始めた。「苦しくても一緒に暮らしなさい つなごう希望:東日本大震災・佐賀から 佐賀北高文化祭、ちんどん屋募金活動 /佐賀 が母の遺言だった。年齢をごまかして進駐軍の日雇い仕事をし、食いつないだ。 「親がおらんので、店に行っても『子供じゃ売れん』と言われて芋も買えん。頼る人もおらんけ辛抱の連続じゃった。我慢強くなれたし、少々のことではへこたれなくもなった」 59年に結婚し、子供を授かった。飲料会社などに勤め、一家を養った。孤児となって焼け野原を生き抜いた経験が、人生の支えになった。「親がおれば」と何度も思った自分に、孫の成長に目を細める日が来るとは夢にも思わなかった。 戦後66年。ともに苦労を重ねたきょうだいで健在なのは、弟の量人(かずと)さん(78)だけになった。3月の東日本大震災以降、報道などで家族を亡くした被災者に接するたび、自らに重ねて思いを寄せる。 「きょうだいが一丸になったから生きてこられた。『腹に立ったことは水に流せ 恩を受けたことは石に刻め』。両親の教えが身に着いていたせいじゃろう。家族に囲まれ、辛抱の人生で良かったと今は思う」【藤顕一郎】……………………………………………………………………………………………………… ■人物略歴 ◇なかした・ともあき 1930年、呉市生まれ。44年4月、三菱工作機械入社。45年7月の呉空襲で両親と弟(当時3歳)を亡くし、同年8月に広島市堺町で被爆した。現在は妻、長男家族と呉市で暮らす。7月23日朝刊 東日本大震災:倉敷市内のスーパー、汚染疑い牛肉販売 市民の指摘で判明 /岡山

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